北京まではもうとにかく、がむしゃらに練習、練習、練習、練習っていう感じだったんですけど、今はピークをレースに合わせるっていうそういうやり方を取り入れるようになりました。いろいろなコース、フラットだったり、上りだったり、トラックだったり。いろいろな大会に出て、その大会のコースの対策をすることによって全体的に力がついてきたっていうのは感じています。
当時怪我をして、その2年後に車いすマラソンを始めたのですが、そのときはやはり人から借りた競技用の車いすに乗っていました。今みたいに自分用などなかったので。それで真っ直ぐに走ることもできず、ほんのちょっと、見えるぐらいの何十メーターか先の電柱に行って戻って来るだけでやっとという状態でしたね。その後何日か経って、一人で河川敷の方に練習しに行きました。とにかく片道行けるだけ行ってみようと思って河川敷をずっと走って行ったら、帰ってくるのがものすごく大変で、一人で外で走りたくないなと思ったのを覚えています。
結構遅かったと思います。最初は「世界で戦える」って言うよりも、とりあえず目の前の大会に照準を合わせていました。ものすごく遅かった時期は、レベルの低い自分なりに「あの選手に勝とう」とか、「この間は第3集団だったけど、第2集団には絶対食らいついて行くぞ」と目標を立てて、それを1つずつクリアして行きました。そして気がつくと、突然、日本身障陸連の方から封筒が届いたんです。自分では全然気づかなかったのですが、ある大会で強化指定選手のタイムを切っていたとのことでした。
驚きました。いきなり日本身障陸連の方から封筒が届きまして、開けたら強化指定選手に選ばれました、と書いてありまして。そのとき一瞬目の前が開けた感じがしました。「あ、頑張ろう」って。
そうですね、やはり嬉しかったです。認められたと言うか、「一定のレベルに来たのだな」と。それまでは全く気にもしてなかったのですが、そういうことがあって「ああ、頑張って良かったな」と思いました。それからは目標を高く持つようになって、そこから北京パラリンピックを目指すようになりました。それでも最初は「出場する・日本代表になる」ということを目標に揚げていたのですけど、コーチみたいな形でお世話になっている黒沢さんという方が「北京に行くだけだと意味がない」ってことを言われたんです。「メダルを取りにいかないなら、行かん方がいい」っていうことをあっさり言われて。
はい。「メダルを取るっていう、常に強い気持ちを持って練習をしておけば、必然的に日本代表っていうのはついてくる」っていうことを言われました。それからは「自分でどこまでできるかわからんけども、後悔だけはしたくない」と思って、とにかく目標に向かってチャレンジしようっていう気持ちになりました。そして日本代表になることができて、北京の舞台に立つことができたんです。
そこでは「もうやるべきことはやった」と。「後はもうそれを出すだけだ」と思って、自分の中ではベストな状態で大会に臨みました。結果は5位入賞ということで、メダルには手が届かなかったのですが、そこからまたロンドン大会に向けていろいろ課題も見えてきました。









