三菱化学メディアでは、トップレベルの実力を持ちながらも十分なサポートや活動資金が得られないスポーツ選手を支援している団体「BLUETAG(ブルータグ)」の理念に共感しサポート企業となっています。その所属選手の1人、ラートプレーヤーの吉田 望(よしだ のぞみ)選手は、2005年に全日本インカレを仲間と発足後、ラート界に新たな風をと、ラートパフォーマーとしても舞台、イベントを中心に活動。ラートの魅力を世に伝え続けています。吉田選手にインタビューに応じていただき、「ラート」にかける想いなどを語っていただきました。ぜひご覧ください。

ラート競技をはじめられたきっかけを教えてください。

始めたきっかけは、中学生の頃にたまたまテレビでラートというスポーツを知って興味を持ったからです。同じ時期に新聞記事も見て、電話で調べていって辿り着いたのが日本ラート協会というところでした。実はその前から「何か1つ自分だけの特技が欲しい」と考えていたのですが、私は体操をやっていたので、スポーツで自分だけのオンリーワンが持てるものが欲しかったということもきっかけといえばきっかけですね。

実際にはどのようにラート競技にたどり着いたのですか?

私が出会ったのが当時中学2年生の時、1999年でした。新聞記事に載っていた筑波大学に電話で問い合わせたところ、スポーツ器具として日本に初めてラートを持って来た長谷川教授とダイレクトに電話が繋がったんです。これまた、奇跡的な感じで。その長谷川教授から日本ラート協会を紹介して頂いて、そこから東京近辺でラートが行える場所を紹介して頂きました。結果、東海大学のラートサークルで、ラートをやらせてもらえることになりました。

中学生のラート競技者は、珍しかったのでは?

そうですね。大学から始める人がほとんどである中、中学生でラートをやっている人は私の知っている限り、当時は一人しかいませんでした。中学3年生から東海大学でラートを週末だけ練習させて貰っていました。そして高校でも土日に練習がしたかったので、土日休みの学校を選びました。ラートには体操競技の要素がいろいろ入っているので、平日は学校の新体操部で活動しました。大学に関しては、日本一の大学に行きたいと思っていましたので筑波大学に進学しました。

ラート競技に「自分だけの特技」になりうる可能性を感じたと?

そうですね。やってみたときに「これだな」って思うものがありました。その感覚がとにかく楽しかったんです。体操をやっていたときにも、頭が逆さまになる動きなどは体験していたのですが、それとは異なる「ゆっくり視界が三次元に変わってゆく」というような、今まで体験したことのない世界がそこにありました。その感覚がすごく楽しかったというのと、競技者が少ない競技だったので、「今から始めたら世界を目指せる」と思ったこともありまして。

そのような「新しい分野への挑戦」に関して、難しかった点はありますか?

難しいことだらけでした。皆、練習方法や指導方法も含めて試行錯誤の中で練習していましたので、仲間同士、お互いに助け合い、という感じでした。新しい技を考えたり、補助の仕方や練習方法を試し合ったり、大会に持って行く構成を考えたり・・・。指導本が無いので、今でもそれは同じで、演技をビデオに録っては自分で見てみて「あ、これでいいのか」と確認して、競技内容についてルールを読みながら、構成を組み立てたりしていた感じでしたね。

具体的には、どのような指導を受けたのですか?

中学~高校生だった頃は東海大学にいる大学生の方々と卒業生の方に見ていただきました。年に二回、日本ラート協会主催の講習会があるときには、普段指導して貰えない指導を受けたりしていました。とにかく1つ1つが挑戦でしたね。今でもそうですけど。

練習場所はどのような感じでしたか?

東海大学では木の床の体育館で練習していました。筑波大学は床質は少し異なりましたが、マットやトランポリンなどの設備が良かったです。広さはバスケットボールコートの広さがあれば十分です。大学を卒業してからは、練習場所の確保が難しく、大学に戻って練習することがほとんどでしたね。本場ドイツの場合は学校にラートの器具があったりして、環境のベースから異なる部分はありますね。地域に根付いているという感じで。現状として、日本で続けたいと思った人は、ある程度独力で場所を確保したり、それこそ自分のラート器具を保管するスペースも見つけなければならない、といった感じです。

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